ホラー小説や怪談は、あまり好きなほうではないので敢えて読みませんが、このヘンリー・ジェームスの『ねじの回転』は怪談というは意識はなく手にとりました。この小説の怖さをどう表現したらよいのでしょうか。典型的な怪談のシチュエーションを取っていますが、亡霊の姿がおどろおどろしく描写されているわけではないし、主人公が幽霊や悪魔に襲われたりするわけではありません。それなのに、読み終わったとき背筋が凍るような恐怖を感じました。
  物語は、暖炉を囲んで怪談話に興じている数人の男女の会話から始まります。一人の男が「ねじの回転(ひねり)を利かせた話」として、妹の家庭教師だった女性が体験した幽霊譚を語り始めます。当時、二十歳になったばかりの家庭教師は、イギリスの片田舎にある貴族屋敷で、両親を失った兄妹マイルズとフローラの面倒を見ることになりました。その二人は天使のよう美しく、また利発は子供たちでした。ある日、彼女は邸にいるはずもない男が塔の上から彼女をじっと凝視めているのに気づきます。そして、しばらく後、さらに湖の向こう岸に邪悪な様相でフローラを凝視める女の影を目撃します。彼らの目的は、二人の幼い兄妹だったのです。
  ヘンリー・ジェームスは、プルースト、カフカ、三島由紀夫などが影響を受けた「意識の流れ」の源流とされる19世紀の作家です。「意識の流れ」とは、物自体ではなく、われわれの純粋経験・直接経験がわれわれの実在であり、世界は固定しているわけでなく、相対的で多元的であるとした考えです。『ねじの回転』は、家庭教師の手記という形をとることにより、読者はすべて彼女の眼というフィルターを通して事件を目撃します。その描写は精緻でありながら暗喩に満ちており、読者である私自身の心を映し出すことになります。きっと、この小説から感じる恐怖感は自分の中にある
恐怖の表れなのかもしれません。
  無意識と意識をつなぐもの、それが「ねじ」で、その一ひねりで無意識が意識に現れる・・・深読みのしすぎでしょうか。
『ねじの回転』("The Turn of the Screw"): ヘンリー・ジェームス作 蕗沢忠枝訳 新潮文庫
『ねじの回転』原作の映画
- 「回転 THE Innocents」1961(英)
  監督:ジャック・クレイトン 出演:デボラ・カー,マイケル・レッドグレーヴ
- 「妖精たちの森 THE NIGHTCOMERS」1971(英)
.....監督:マイケル・ウィナー 出演:マーロン・ブランド,ステファニー・ビーチャム
- 「ホワイト・ナイトメア The Turn of the Screw」1992(英=仏)
  監督・脚本:ラスティ・レモランデ 出演:パッツィ・ケンジット マリアンヌ・フェイスフル ジュリアン・サンズ
...《その時、わたしは小さい手仕事をしながら---ともかく、わたしは坐っていられる身分だったので---湖水を見下ろす岸辺の古石に腰をかけていた。そして、その姿勢のままで、わたしはハッキリ、といっても決して直接目で見たわけでないが、遠方に、一人の第三者がいることに気づきだしたのだ。
  あたりには老樹やこんもりした潅木が、巨大な、気持ちのいい樹蔭をつくっていたが、でも、暑さに静まりかえった午後のあのひとときの眩い陽光は、ありとあらゆる場所に漲りかえっていた。どこにも、何一つ、曖昧不明瞭な点はなかった。少なくとも、目を上げれば、自分のまっすぐ前方の湖水の向う岸に、”必ずそれを見る”という、次第に強まっていったわたしの確信には、一点の曇りもなかった。
  ちょうどわたしの目は、自分のしている編み物の上にそそがれていた。で、わたしは必死で、しっかり気を落ち着けて、どうすればいいか決心がつくまでは、決して目を上げまいと頑張った。あのときの全身が痙攣せんばかりの緊張感は、いまもまざまざと思い出される。
  眼の前に異質のものがいる---あの人影は、一体何の権利があってそこへやって来たのか?とわたしはすぐ懸命に自問した。そしてわたしは、あらゆる可能な場合を数えあげ、例えば、このあたりの連中の誰かか、村からの使いのものか、郵便配達か、商店のボーイなどだったら、ごく自然な話だと自答した。
  しかし、そう自答しても、依然わたしの実際の確信は変わらず、わたしは---まだ見てもいないのに---その進入者の性格や態度をハッキリ意識していた。そういう人々では絶対にあり得ない、あり得ないほうが遥かに自然だ、とわたしは心のそこでハッキリ感じていた。》

  《わたしはただ“自然”を信頼し、重要視していかなければならない。いま、わたしの恐ろしい試練はもちろん、不愉快な方向に押し進められてはいるが、しかし結局、ただ一回転(ひねり)すればふつうの美徳に変わるのだから、善い方の状態になるネジの一回転を、わたしはあくまで追求していくべきだ。